2006年12月5日火曜日

マスコミ論

「歴史は戦争に勝った国が作る」
とはよく言ったもので、絶対的勝者あるいは影響力が大きい存在の言葉が、錯覚を伴う真実として伝えられることは、一種の心象学的定理とも言える状態で我々の無意識領域へ浸透していると言える。
その一つとして上げられるのが「権威主義への服従」であり、その一番よい例はマスコミだろう。


マスコミ(主にテレビメディア報道)は、生活へ浸透し、身近で、ネットワークを保持し、体裁を整える術を知っているが為、見る側にとっては文学的言葉を使えば「天啓」を錯覚させる。
それに加え、反論する術が無い・・・逆に言えば、反論する必要性が皆無という状態では、人間は外部からの刺激を無批判に受け入れてしまう傾向にある。
「テレビで言ってたから」というのは、誰しも一度は言う台詞だ。


一昔前に比べてネットが発達し、情報化社会と呼ばれる現在でも、まだ今のところ勝者的立場にあるテレビの存在を無批判に受け入れる事は、「意図的に世論を作り出される」という危険性を伴う。
はっきり言ってしまえば、情報なんて物は事実と証拠が揃っていれば成立する訳で、現在の民放各局が置いているコメンテーターなる偉そうな肩書きの人々は「視聴者のイメージ操作をする為の媒体」でしかない。


では、NHKのような事象のみを淡々と伝えるスタイルになれば解決するのか、と言われればそう単純な話でもなく、コメンテーターを介さない情報操作方法はいくらでもあるので、器が変わっただけで中身は変わらない状態になるだろう。
そこまで考えてしまうと、じゃあもうマスコミなんていらねーじゃん、という結論になる。


マスコミは情報操作しかしない。だから無くなってしまえ。
そう言うのは確かに簡単だ。だがそれを言う前に、少し先の事を考える必要がある。
マスコミという存在が無くなったと仮定して、一個人がマスコミと同レベルの情報収集が行えるのか、という点だ。
映像で言えば1~2分で終わる程度の記者会見や、現場の状態中継、情報ソースの確認など、個人が自由にできる時間の数十倍に相当する時間が費やされている。
つまり意欲云々の話ではなく、ゼロからのスタートでは個人がマスコミの情報力を凌駕する事は、物理的に不可能なのだ。


今のマスコミの唯一といっていい長所は、この組織・ネットワークからもたらされる情報力である。
ならばこの部分を最大限利用する方が、効率がいいし最も楽な方法だと思う。
もたらされる膨大な情報の真贋を判定するというスタンスならば、個人でもマスコミの情報力を凌駕する事が可能だ。


マスコミを踏み台にしつつ、自分で考える。
そうすれば、氾濫する情報の中でも正気を保っていけるだろう。







そして、この理屈を早速鵜呑みにするのも危ない。
踏み台にして考えるが吉。

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