2007年7月31日火曜日

知りたがり

基本的に「疑う」というスタンスは、人間関係においていい意味を持たれない。
でも疑う姿勢というものは、いい意味でも悪い意味でも「関心」というトリガーがなければ発動しないものだと思う。

本質的な意味での「好きの対義語は嫌いじゃなく無関心」といった台詞は言い得て妙で、好きだから疑う、嫌いだから疑うという概念は成立しても、興味ないから疑う、という概念は成立しない。
つまり、対象への関心という一点のみで言えば、両者に差は存在しない事になる。
それを喜ぶべき事と判断するのは、ポジティブ過ぎる考えなのだろうか。

こういう「負に隠れた長所」は他にも多分いくつもあるはずで、そういうのを発見していけたら楽しいだろうなと考えた2007年7月31日。


※2007年7月31日 23:30 追記※
ええと、何だか言いたいことが正確に言えてない気がしたので。

「疑う事は正しい」「疑われること万歳」と言ってるわけじゃないので注意。
個人的には「信じる」という行為が必ずしも美しく、無批判に礼賛されるべき行為ではないんじゃないかという事が言いたかったのです。
信じるという行為ほど、楽に思考停止できて自己弁護できるものはないと思うし。
それは信じるというより、関心がなかっただけなんじゃないの?と言われてもおかしくはないはずなんですよ。本当はね。

疑う事が誠意であったりする場合もあるし、信じる事が失礼である場合もある。
そういうことです。

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