2006年11月22日水曜日

天才を作り出す、何か

昨日のWikipediaにも関係しますが、小説や論文や歴史文献でも、興味がない文章は物凄く読み辛い。 仮に理解できたとしても、短期記憶から長期記憶に移行させづらい。つまり、忘れやすい状態になる。

上記はあくまで私個人の話ですが、それだと話が進まないので、この事が普遍性のあるものだと仮定して書く事にする。

世には「天才」という定義があります。
哲学的な定義になるため、万人に納得される定義は無いと考えます。よって、ここでは割愛。
ちょっと見方を変えて、天才の成り立ちについて一考してみる。

冒頭のように「文章」を例にした場合でも、興味の有る無しで受け取り方が大きく違う。
以下のような心理作用が働くからだ。

・興味が有る → 能動的姿勢
・興味が無い → 受動的姿勢

能動的姿勢は「好き」や「探究心」に置き換えられ、それそのものに連続性が内包している。
つまり能動的姿勢が継続され、連鎖し、無意識的に天性を磨き上げていく。この部分が一般的に「努力」と言われたり「才能」と評されたりする。
巷で天才と言われている人々は、情報を見る限り、おおよそこちらへ分類されるだろう。
好きであり、且つ天性の素質が存在した人々だ。

一方、受動的姿勢は向こうから来なければ何もしない。つまり、連続性が存在しない。
そうなると、天性があっても磨く場所も存在しない為、そのまま埋もれてしまう可能性が非常に高い。
しかし逆に言えば、「嫌いなのに偉業を達成した」という場合、天才と認めざるを得ないとも言える。
現実では、ほぼあえりえないが。

こうして並べてみると、方法論さえ考えなければ明らかに後者の方が天才的描写が強く出る。
「嫌々だけど、やれば凄い主人公」が物語に登場しやすい理由が、ちょっとわかる気がする。

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